昨年の年末。
中国武漢でコロナウィルスが発生し、ちらほらとニュースになっていた。
今年1月。
ニュースでは武漢から中国全土に新型コロナウィルスが拡がり大変なことになっていると報じていた。
我々はまだライブをしていたし、2月から始まるレコーディングに向け曲を作り、リハーサルをしていた。
2月。
新型コロナウィルス被害が中国から他国にまで拡大。
もちろん日本も東京、大阪、札幌をはじめ、中国人観光客が多い都市に感染者が増えていった。
そんな中、都内でレコーディング開始。
都内ではマスクが品切れになる中、幸いなことに浜松にはまだマスクが売っていたので東京滞在の日数分と同じ枚数くらいのマスクを買って東京に向かった。
レコーディング中も基本的にみんなマスク着用。
都内のコンビニにはマスクは売っていない状態。
毎朝、泊まっているホテルからレコーディングスタジオまでの電車もマスクをした乗客ばかりだった。
レコーディングの合間にラジオの収録やライブがあり、東京から静岡そしてまた東京。東京から名古屋、そしてまた東京。
そんな生活の中、昨年リリースした「トワイライトシンドローム」がCDショップ大賞のジャズ賞になったとビクター担当から伝えられる。
飛び跳ねた。
震えた。
今週末には新潟でライブ。
来週は遂にフラカンと2マン。
レコーディングも順調。
今年は良いことがたくさんありそうだ。
近い未来に希望を持ったまま、今年上半期のライブは2月22日の横浜F.A.Dが最後になった。
3月。
中国から拡がった新型コロナウィルスは全世界で感染者を増やし、日本も主な都市部で感染者が増えていく。
2月末に大型ライブが強行。
2月末に大型ライブの全国ツアーが中止。
開催か中止か、そんな選択が始まった音楽業界。
開催すれば収益はあるが、感染者を増やしてしまう可能性もあるし、何より世間様に向けての印象は悪い。
中止すれば批判は避けられるが、中止にかかるキャンセル料や既に作ってしまっているグッズ販売もできず、収入はゼロで支出だけが残る。
そんな状況。
我々のレコーディングはほぼ終わったが、ミックスの立ち合いなどでまだ都内に滞在することも多かった。
そしていよいよ自分にも迫った選択。
3月はライブが多かった。
富士市でのイベント、浜松窓枠でのワンマン、The Cherry Coke$のツアー、料理イベント、ReGでの2マン。
そんな中、所属レーベルのビクターロック祭りが開催中止。
レコーディングが終わった3月6日、ビクターの担当者と色々話をした。
まだ感染者がいない浜松で今ワンマンをやることはできれば止めたい、と担当者は言う。
ワンマンを辞めるのであれば他のイベントも全て出演することは筋としておかしくなる為、他のイベントも出演キャンセルしなければいけない、と私は言う。
それでも今はやるべきではない、なぜなら僕(ビクター)は玉田さんを守ることも仕事であり、ここまで作ったCDは無事にリリースして欲しいし、そのCDはこの状況でも一番良い形で世に出したい。
もし万が一にも浜松ワンマンが原因で浜松に感染者が出たら、せっかく作ったこの作品も悪い印象がついてしまう可能性もある。
担当はそう言う。
私も考える。
今まで自分を支えてきてくれたお客さんや浜松市に感染させるリスクを負わせてまで今、ライブをする必要があるのか。
みんなにも仕事があり、生活があり、家族がいる。
苦しむ姿など見たくないだろうし、見せたくないだろうし、何よりお客さんに苦しんで欲しくない。
それを自分がしたいからする、という理由だけで今まで応援してくれた方々の健康と将来を奪う可能性は1%でもあっていいはずがない。
そしてワンマンを中止すると同時に他イベントでの関係者に連絡した。
そこからが辛かった。
自分のライブはできないのに、人はライブをしている。
それを見るのがとても辛かった。
知るのも嫌だった。
「自分は間違ったことをしていない」
誰もがそう思ってやっていることだ。
もちろん私もそう思って全てのライブを中止にした。
中止にした時点でこんな気持ちになることは分かっていたつもりでも、実際にはそんなことない。
「俺だってライブをしたいのに。やりたくなくて中止にしたわけじゃないのに」
ライブ予定の日には謝罪のツイートをし、気持ちが落ち込む。
追い討ちをかけるように、また別のライブ中止の告知日時の連絡が届く。
その日になればまたライブ中止のお知らせと謝罪をツイートする。
3月12日。
CDショップ大賞の授賞式。
そして新しいアルバム「零」のリリースをお知らせ。
久々に明るいニュースを出せた。
将来的にどうなるのか分からない状況で、世の中がパニックになっていた3月。
SNSを開けばミュージシャンやアクター、それに携わる方々の生活が一変し、補償を求めるツイート。
感染者も日に日に増え、営業自粛という言葉が出始め、それに伴う閉店のニュースも出始める。
相変わらずライブは中止が続く。
ホームページのライブのページは赤い字でいっぱいになった。
延期、中止のお知らせばかり。
やりたかったことを我慢し、自分は我慢していることを口に出さないようにし、ラジオでは明るく振舞う。
意外と簡単に正気を失いそうだったが、それでも冷静というか正気を保てていたのはリリースがあったからだったと思う。
そして3月後半。
ラジオの収録で県を跨ぐことができなくなった。
4月。
ライブは全て無くなり、同時にラジオの収録もリモートになった。
2週間に1度行っていた名古屋は3月23日の収録が最後になり、毎週会っていたThe Hey Songのキットくんともその日以来会っていない。
4月6日に初めてリモートで収録。
もちろん初めての試みなので上手くいくはずがない。
今までのスタジオライブはもちろんできなくなり、お互いが自宅で録った音源をディレクターに送りミックスしてもらい、それを放送していた。
もちろんライブ感なんて無い。
ふと頭に浮かぶ。
お互いが自宅で録っているのであれば、もうこの際思い切って普通のライブっぽくしてみよう。
ライブがなくなって悲しいのは自分だけではなく、お客さんも同じはず。
今まではライブに重きを置いていたのでスタジオライブはゆるりとやっていたが、そのライブが無い今はスタジオライブだけしかお客さんにライブを届けることができない。
雰囲気だけでもいいからライブを届けよう。
そんな思い付きから4月半ばの収録からスタジオライブをより普通のライブっぽくしようとする。
ライブとは真逆のドラムを打ち込む。
全体の音をレコーディングエンジニアに送り、それをライブっぽくミックスしてもらう。
そんなことを始めてみる。
4月11日。
ADAM atのグッズを販売し、その売上金を地元のライブハウスに寄付しようとネットショプを立ち上げる。
たくさんの皆様からご支援を頂き、6箇所のライブハウスに寄付をすることができました。
4月16日。
遂に非常事態宣言が発令される。
ここまでの間、何度もINST−ALLの打ち合わせを重ねてきた。
会場となる浜名湖ガーデンパークは静岡県が管理しているので利用規約が絶対。
会場は半年前にならないと正式に予約できない。
そのため、構想は浮かんでいても実際に予約ができてからでないと動けなかったりする。
ガーデンパークの予約が正式に受理され、今年はどのように開催するかを打ち合わせし、その開催のために必要となる事柄をみんなで考えクリアし、出演者にオファーし、ようやく固まってきた2月に新型コロナのニュース。
7月には収束しているだろうと思いつつも、もしかしたら開催できないのでは無いかという可能性も少なからずは考慮していた。
3月になってその問題は本格的に表面化してきた。
そして出された非常事態宣言。
既に同じ時期に開催するフェスなどはいち早く中止のインフォメーションを出したりもしていた。
打ち合わせもリモートになった。
5月。
非常事態宣言のまま迎えたゴールデンウィーク。
毎年、各所で渋滞する高速道路は一つの渋滞も見られず、社会は外出をしない連休を経験した。
観光地は壊滅的な経済ダメージを受け、歴史ある老舗もオープンしたばかりのお店も施設も閉店、廃業が相次ぐ。
生活品を買いがてら、浜名湖まで車を走らせた。
ガーデンパークは閉園していた。
浜名湖近くの舘山寺に並ぶ旅館、ホテルは連休中なのに真っ暗だった。
全てを救うのは無理なんだろうな、と思ってしまった瞬間だった。
同時に、であればせめて近い人や物は救いたいと思った。
相変わらず2月22日からライブがない中、自分のラジオでのスタジオライブをライブハウスと言い張った。
4月28日の放送。
その日からラジオでのライブをライブハウスと言い張ってきた私を、気が触れたのかと思った人もいるかもしれない。
現実逃避にも見える行動だったと思うが、それでも私はラジオで流すライブ風音源を、ライブハウスSBSラジオだと言い続けた。
毎週、ラジオライブ用のピアノを自宅レコーディングし、ドラムを打ち込み、ギターをリモートでハシモトコウタ君に録ってもらい、時にはベースも打ち込みそれをレコーディングエンジニアに送りミックスしてもらった。
そんなことをしているうちにリリースの日が近づいてくる。
しかし4月の非常事態宣言からCDショップもお店を開けられない状況だった。
事実、The Hey Songのリリースも4月29日から5月13日にずれ込んだ。
ゴールデンウィーク明けにビクターから連絡が来た。
リリースを遅らせる可能性がある、とのことだった。
しょうがないことではあるし、どうしようもないことでもあるのだけど、私はその可能性を飲めなかった。
リリースだけが精神的な支えがあったので、それを遅らせて欲しくなかった。
思っていることを担当に伝え、現状は見つつも、予定通り5月27日にリリースしてもらうことになった。
5月13日。
新しいMV「Dancer In The Lake」が公開された。
INST−ALL FESTIVAL2019のドキュメンタリー的なMVなのだが、実は本来はこの曲がMVになる予定ではなかった。
3月から4月で「最終電車」と「零」のMVを撮影する予定だったのだが、新型コロナの影響で撮影ができなくなった。
そんな中で、どうしてもMVを公開したい私は、昨年撮っていただいていた浜名湖のドキュメンタリーを使ってDancer~をMVにすることを提案した。
そのMVが5月13日に公開された。
本当に公開したい映像はこの曲ではなかったけれど、結果的にMVをこの曲にして良かったと思う。
公開した日のみんなからの反応はどれも、INST−ALL FESの開催を心待ちにしていてくれるものばかりだった。
5月26日。
リリース前日のフラゲ日。
早くもCDを手に取ってくださった方々がいて本当に嬉しかった。
5月27日。
ずっとずっと心待ちにしていたリリースの日。
ここまでずっと耐えてきた。
みんなの手元に新しい音源を届けるためにライブもしなかった。
ラジオライブを聴いてほしいから配信もしなかった。
自分のラジオを聴いてほしくて配信ゲストも断ってきた。
やっと新しい音源を皆さんに届けることができた。
次はINST-ALL FESTIVALだ。
6月15日。
開催延期の発表をした。
やはり無理だった。
国が出したガイドラインに従えばできたかもしれないが、無料フェスということでどれだけお客さんが来るか読めない。
加えて、優先入場リストバンドがあるので、入場を制限することは絶対にしたくなかった。
開催は延期。
来年に持ち越します。
1月からここまでの5ヶ月。
打ち合わせも準備もたくさんしてきたが、延期にして良かったと今は思うようにする。
やったもん勝ちの気持ちでやれば開催できたかもしれない。
やったもん勝ちで開催してしまえば、作ってしまっているグッズを販売することもできたし、協賛金も頂けたかもしれない。
でも、そんなのを望んでいたらずっと前からライブしていたと思う。
3月もライブしていたと思うし、4月も5月もライブハウスのためになりたいんだ、とか言って無理矢理ライブをしていたかもしれない。
そして自分を応援している人たちが感染し、苦しんでいる姿を知ることもなく、その人たちが職場にも迷惑をかけたことも知らずに、その人たちがこの先どうするのかすら考えず、ただただ勇気出してライブをする選択をして良かったって自画自賛していたと思う。
なんでそんなことができようか。
勇気出して中止にして延期にしてよかったんだよ。
我々は娯楽を届ける人間だ。
娯楽を届けた先の人たちが苦しむのは我々がやろうとしていることではない。
アーティストという言葉は自分から言う言葉ではない。
不特定多数の第三者から言われて初めて成立する言葉だ。
我々はミュージシャンだ。
届けているのは音楽だ。
アートではない、ミュージックだ。
それを娯楽か芸術かを判断するのは周りだ。
そんな我々が人様の健康を生活を未来を脅かしてまで、自分のやりたいことをやりたいからっていうだけでやっていたんじゃ、世間様に申し訳がない。
世間様が、みんながいてくれるから初めて成立するのが我々だ。
だからみんなを守る選択をすることが結果的に自分のためになるのだ。
そう思う。
いや、そう思いたいだけだな。
無事リリースをすることができ、次はINST−ALL FESだったけど今回は延期。
浜松ワンマンも中止になってしまったから相変わらずライブはない。
だから今日もラジオライブ用の音源を作る。
ありもしない物を見たと、大きな声で触れ回る昔話のように、存在しないライブハウスの名前を叫び、存在しない観客をいるように思い込み、そこにいないメンバーの名を呼ぶ。
でも、それは過去にみんなと確実に共有した時間と空間、あの熱気を忘れないためにしていることだと、そう思ってもらえると嬉しい。
そしていつか近いうちにちゃんとライブハウスで会えることを願っています。
当分はラジオで会いましょう。
ADAM at